『朝に鶏鳴聞かば、夕べに死するは悔いあり』
原文
~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~
【意味】朝にどう生きるべきかを悟ることができれば、夕べに死んでしまったとしても後悔はない。
孔子の論語です。
道というのは、人が正しく生きる道のことです。しかし広い意味に立てば何かに打ち込み極めることも、道に例えられます。私たち僧侶も求道者でしょうが、『求道』と『死』を比較し、「死んでしまったとしても」とは、ちょっと言うことが出来ません。それぐらい大事なことという意味だそうですけど。
死んでまでやらなくても良いけれど、自分自身が出来ることを精一杯やらせていただく。道を極めることが出来ないとしてもやれるだけはやる。
今年に入ってから、先の報告の通り『四箇法要』の練習をしています。本番の善立寺継職法要まで残り僅かの期間となってしまいました。何とか少しずつ形になりつつあるように思うのですが、気を抜かずに当日まで、会員各々が努力を積み重ねていかなければなりません。
さて、タイトルの意味についてお話しますね。昼間はお参りがありますから、練習の時間は、夜になることが多いです。そうすると次の朝はやっぱりしんどい。ましてや、早朝のお参りともなるとなおさらです。夕方頃には疲れも出てきてダウンしそうな時もあります。昨日、練習に行かなかったらよかったとついつい思ってしまうこともあります。なかなか格好良くはいけませんよ。そんな弱い自分と共に道を歩んでいく。
・・・出来ることをコツコツと少しずつ前に進んで行きましょう・・・
上記のように練習しておりましたが、残念なこととなってしまいました。
善立寺継職法要が来年、令和3年4月17日(土)に延期になりました。新型コロナウイルスの感染が広がっており、法要に関わる方々の健康を考慮して延期を決断なさったそうです。善立寺関係者の皆様のご苦労を考えると非常に気の毒に思います。1年ほど先にはなってしまいましたけれども、それまで練習を重ねて参ります。
また、今は企画の段階ではありますが、毎年恒例の和鳴会定期演奏会を秋に開催したいと思っています。その際、『四箇法要』を演目に加えることが出来れば良いな。一刻も早く新型コロナウイルスが終息してほしいものです。多くのイベントなどが自粛されることは残念ではありますが、それぞれが出来ることとしてそうしたこともやむなしでしょう。
次回に向けて頑張ってまいりますので、どうぞ温かく見守って下さい。宜しくお願い致します。